株式会社大谷堂
畑から釜へ、そして世界へ
―「幸せのハードルを下げる」発想が生んだ、本わらび餅づくりの挑戦と継承 ―
代表取締役 大谷 茂
| 事業内容 | わらび餅製造・販売、本わらび粉の栽培・製粉、オンライン販売 |
| 企業名 | 株式会社 大谷堂 |
| 創業 | 2006年(平成18年) |
| 所在地 | 川崎市川崎区大師町4-41(川崎大師仲見世通り)、農園・製粉工場:山梨県北杜市 |
| 電話 | 044-201-7167 |
| 従業員 | 店舗従業員5名、アルバイト15名(繁忙期30名) |
| 代表 | 代表取締役 大谷 茂(オオタニ シゲル) |
| URL | https://ohtanido.com/ |
透明な輝きの中に作り手の情熱が凝縮されている。川崎大師仲見世通りで19年にわたり愛され続けてきた「大谷堂」。40歳のとき水も出ない店の裏で寝起きしながら始めた商売は、今や自社農園での蕨栽培から本わらび粉の精製、わらび餅の製造販売まで一貫して手がけ、海外にも進出する「第6次産業」へと進化を遂げた。「夢と希望があれば何でもできる」。そう語る大谷茂社長の言葉には、どん底から這い上がった確かな重みがある。
京都との出会いから始まったわらび餅の道 ― 峯嵐堂との縁 ―
大谷堂の創業は2006年。創業前、大谷社長は各地の食のイベントなどへ出店していたが、転機は、京都「嵯峨野豆菓司・峯嵐堂」の店主との出会いだった。「お店を大切にしないとやっていけない」という教えを懇々と説かれ、それが自分の店を持とうと決意するきっかけとなった。
そして暮れの12月28日に急きょ空き店舗が見つかった。正月の参拝客向けにわらび餅を販売しようと考え、峯嵐堂に商品を送ってほしいと依頼した。峯嵐堂の主人は無理をしてわらび粉を集め、年末に京都から川崎まで自ら車を運転して届けてくれた。
「それがなければ、多分今ここにないと思います。人生の中でも、ものすごい大きな転換期でした」
当時、大谷社長は店の裏のシェアハウスで寝泊まりしていた。水も出ない環境で、住む場所もなく、40歳を迎えていた。しかし不思議なことに、全く悲観する気持ちがなかった。「俺ここじゃないから」、「ここで終わらない」という確信が大谷社長を支えていた。 初めて水道が出た時、「蛇口をひねれば水が出る、そのありがたさ。もう涙が出てくるぐらいありがたかった」という。「幸せと感じるハードルがいったん低い状態になったので、ちょっとしたことでも幸せに感じることができるようになる」。この経験が、日々の一つひとつのことに幸せを感じる原点となった。
半年間の試行錯誤と銅釜の技 ― 結果よりプロセス、そして継承へ ―
2年ほど峯嵐堂から仕入れて販売していたが、「自分で製品を作っていかなきゃダメだよ」と言われた。大谷社長と、最初の従業員の2人で、峯嵐堂に修業に通った。約1年間、作り方を教わり、完璧に作れるようになって川崎に帰ってきた。釜も機械も原料も全部同じ。それで作った。
「できないんですよ。同じものが」
水、温度、湿度の違いで同じものができない。約半年間、商品を仕入れながら試作を繰り返した。やっと同じものができるようになり、初めて自分たちのわらび餅を出すようになった。2009年頃から、わらび餅を自社で開発するようになった。
この試行錯誤の中で、峯嵐堂での修業時代に導入した銅釜の重要性を痛感することになる。沸騰の泡や色の変化を見極めることで最高の状態に仕上げる。温度や湿度などによって最適な火加減は毎日異なるため、タイマーでは計れない。職人の目と感覚が頼りである。
この「釜の技」は、習得に1年以上を要する。現在は30代の若手職人2名がその技を受け継ぎ、季節の移ろいを体で覚えながら品質を守っている。「4つの季節、12カ月を2周経験してようやく見えてくる」。その言葉に、手仕事への誇りが宿る。
最初の年は、試食を差し出しても受け取ってもらえなかった。2年目になると食べてくれるようになった。3年目に試食をやめても、お客様がしっかりとついてきてくれた。「去年来て美味しかったからまた来たよ」という一言に涙が出るほど嬉しかったという。
「他人の評価はあくまで相対的なもの。自分自身の絶対的な評価を大切にする」、「結果よりもプロセスを大切に」。大谷社長が掲げる言葉には、苦境を乗り越えた者の確信がある。
釜揚げわらび餅
山梨・白州で始まった「本わらび粉」への挑戦
やがて、国内産の本わらび粉が手に入りにくくなり、特に上質な粉の確保が難しくなってきた。「それなら自分で作るしかない。」
母の実家がある山梨は、大谷社長にとって「日本の原風景」だった。水の清らかな白州の地で作ろうと北杜市に行き着いた。役所に相談したところ、耕作放棄地を「ぜひやってくれ」と紹介され、生産に着手した。
自社農園を作ると決めたとき、みんな反対だった。でも、大谷社長には「絶対にやらないといけない」という信念があり、従業員と草刈りを共にする中で「この畑で自分たちのやりたいことをやっていこう」という思いを共有できるようになった。
水の清らかな白州の地で試行錯誤を重ね、5000坪の蕨畑を整備。現在では畑に植えた蕨の根からデンプンが2トン半採れるようになったが、そこから採れるわらび粉はわずか40キロほどの希少品だ。根が張るのに時間がかかるため、毎年少しずつ収穫する。今年の秋の収穫では5トンを目指して拡張中だ。
自分達で整備した蕨畑
飛鳥時代の製法を守る ― ぎりぎりのタイミングで継承した技 ―
しかし、収穫した蕨の根を粉にする方法が分からなかった。飛騨の山中に本わらび粉を作っている村があると聞き、学びに行った。10年近く前のことだが、当時、昔ながらの伝統製法を知っているのは村でも数人しかおらず、ぎりぎりのタイミングで受け継ぐことができたという。
市販品の多くは茶褐色だが、1400年前の飛鳥時代からの伝統製法で作る本来の本わらび粉は無色透明で雑味がなく、食感も異なる。その昔ながらの食感を伝えたかった。
2019年にはクラウドファンディングを活用して資金を募り、翌年元旦に「本わらび餅・いち」の出荷を果たした。より多くの方に楽しんでいただけるよう、現在は保存性を考慮した配合で販売しているが、2026年には本わらび粉を100%使用した「本わらび餅」の発売を予定している。
貴重な40キロのわらび粉から作る本わらび餅は、無色透明の上質品。予約制で1日5食限定、4〜5人前で8,000円程度を予定している。「好みは人それぞれですが、昔ながらの製法にこだわる店が一軒くらいあってもいい。それを必要とするお客様に、しっかりとしたものを届けたい」。賞味期限が30分と極めて短いため、店頭で召し上がっていただく。
メディア効果から世界へ ― 店頭販売という原点を守りながら ―
2023年3月、人気番組で取り上げられたときは放送後30分でネットから1万件近い注文が入った。原材料や容器などの調達も追いつかず、混乱が3カ月ほど続いた。しかし「注文に対応しきれないという状況は、大変良い経験になりました」。この経験からネット対応のノウハウを蓄積した。ネットやSNSでの発信を強化、公式サイトのほか、各種通販サイトにも積極的に展開するなど、「釜揚げわらび餅」が全国ネットで認知されるようになった。
しかし大谷社長はあくまで「店頭での販売が原点」と語る。ネットで注目されても、目の前でわらび餅を練り上げ、湯気の立つ出来立てを食べてもらう喜びには代えられない。
川崎から世界へ ― 第6次産業のグローバル展開 ―
海外にも出品し、大手企業からの引き合いが多くなっている。増産対応も課題とし、山梨工場の拡張と製造部門強化に取り組み中だが、「時代の流れを意識し、規模拡大よりも手の届く範囲で確実に」と現実的な成長路線を描いている。
「自らが作った畑から収穫したもので製品を作る、いわゆる第6次産業をやっています。それを海外でも展開していきたい」
コロナ禍前から台湾、タイ、シンガポールに進出しているが、将来的には畑から製品までの6次産業を世界で展開し、現地の素材を使った「現地仕様」の和菓子を新たに開発・提供したいと考えている。また、和の文化を広げたいという思いから、視線は世界に向けられている。
しかし店頭での販売が原点。この仲見世通りに一人でも多くのお客様にお越しいただけるよう、これからも店頭で召し上がっていただける「本わらび餅」に力を入れていきたい。
創業時に手を差し伸べてくれた峯嵐堂の店主とは、今も良きライバルであり、一生を通じた師であり仲間だ。大谷社長の言葉には、感謝と誇りがにじむ。
「昔ながらのわらび粉から、『わらび餅とはこうだ』という原点を守り続ける店が一軒くらいはあってもいい」
創業から20年、困難を笑顔に変え、川崎の地で伝統を未来へつなぐ大谷堂。銅釜の湯気の向こうに見えるのは、確かな信念と、今日も誰かの「美味しい」のひと言を待つ職人の背中である。