起承転結で考え、機を読み、デジタル家電を支えるソフト/コンテンツを開発する
社長 渡辺 泰光
事業内容 | 電子計測・制御等を応用した検査システムの受託開発および販売 |
企業名 | 株式会社 エイム |
創業 | 1987年10月 |
所在地 | 川崎市高津区溝口3-8-7 第一鈴勝ビル |
電話 | 044-812-0501 |
代表 | 渡辺 泰光 (ワタナベ ヤスミツ) |
URL | http://www.aim-inc.co.jp |
音楽のCDをパソコンに挿入すると、自動で演奏者やタイトル、曲目などの情報が出てきて驚いたことのある方は多いであろう。これはCDDB (CD DataBase)の働きによるもので、初めて日本語版CDDBサーバーを開発・運営したのが、エイムである。邦楽CDをデータ化することでインターネットへの架け橋を作った渡辺泰光社長は、自らを育んできたソフトウェアと音楽の領域でさらなる新しいビジネスを追求している。
成り行きで入ったソフト会社でプログラミングの面白さに目覚め創業
国文学を専攻し、バンド活動に熱を入れていた学生であった渡辺氏は、面接の印象が良かったという理由でそれまで縁のなかったソフト会社に入社する。配属後は産業用ロボット向けの組込みソフトのプログラミングを担当したが、「ソフトウェアってなんですか?と言うレベル」で入社したため、必死に勉強する毎日であった。
「小さい頃はプラモデルを作るのが好きでしたが、不器用で上手にできないんですね。プログラミングは、初めて自分の思い通りになる“玩具”を与えられている感覚がありました。また、文章を書くのがすごく好きでプログラムの起承転結と通じる点、そして珠算四段で計算の基礎があったことは大きかったですね」と当時を自己分析する。
渡辺社長は仕事に慣れ実力をつけた4年後、ソフト会社を退職する。そして、フリーランスのエンジニアとして半年を過ごした後、エイムを設立する。前の会社の後輩であった齋藤氏(現同社CTO)を誘い、妻と合わせて3人での立ち上げで、時は1987年、26歳になる1週間前のことであった。
「特に目標も野心もなく、ソフト開発が好きだったので成り行きでフリーになったというところでしょうか。その後、周りの人から焚きつけられ、小さくても良いから自分で会社を興そうかなと。だから、会社を大きくしようという思いは全然なかったですね」と当時を振り返る。
創業初期から決めていたことは、組込み系、デバイス系の分野に特化することであった。市場規模の大きいWindows系の開発への誘惑はあったが、軸足を移すことは一切せずに組込みでの実績を重ねていった。もう一つの決め事は、納期主義の徹底であった。2人の現場担当役員が管理を徹底し、受託した納期に関しては嘘をつかないということを貫いた。
それらが強みとして顧客に伝わるようになり、新規の開拓営業はしなくとも、紹介で繋がった官庁関係や産業分野から仕事を集めながら、当時市場が拡大していた携帯電話向けの組込みソフト開発の波に乗り、会社は成長していった。
CDDBの日本語化に取り組み、自社製品とコンテンツを創出
創業10年を超えると、社員も増えて社長としての責任が一層肩にのしかかってきた。一方で、受託の単価下落傾向も出てきており、これを機に会社の今後の成長戦略を検討、「自分たちが主導権を持てるビジネスを始めなくてはいけない」との結論に至り、社内からアイディアを募った。その中から実行に移したのがCDDBの日本語サーバーであった。それはアメリカのCDDBサーバーのデータの増え方を見て、「日本語データも同様に増やしていけば絶対ビジネスになる」という考えからであった。そこで洋楽はアメリカのサーバーをそのまま使い、日本語対応は当時CDDBが公開していたコードを使って、社長直轄プロジェクトで開発を進めた。当初は、オンラインソフトウェア流通サイトから一本1,500円でリリースした。すると、パソコン雑誌などから、掲載依頼が殺到、瞬く間に注目を浴びた。
98年の4月、CDDBサーバーを立ち上げた当初は、社長を含めた社員全員でCDデータを手打ちしていたが、それでも900枚ほど。一般ユーザーからするとデータは不足しており、パソコンに入れたCDがほとんどヒットしない状況であった。しかし、それでもクレームもなくユーザー自らが入力してくれるという現象が起きて、アメリカと同様に日本語CDDBの規模が拡大したため、エイムではデータ整理とメンテナンスに集中することが出来た。立ち上げから約1年後の99年の6月には約3万枚の邦楽CDをカバーして、ポップスだと8割程度のヒット率となった。
CDDBのソフトウェアもある程度は売れていたが、渡辺氏の構想は、CDデータのサーバービジネスの立ち上がりだった。カーナビ会社からのCDDBサーバーの使用依頼が舞い込むなど、開発当時は予想もつかなかった用途が広がり、渡辺氏のねらいは当たった。 その頃、当初組合形態であった米国のCDDBはGracenoteという法人組織(以下G社)に改組され、商業利用の動きが加速していた。99年の12月には同社から全世界対応のための業務提携のオファーがあり、エイムは即快諾した。
それからの2000年代は一番成長した時期でもあり、失敗をした時期でもあった。まずG社との連携方策を決めた。契約書により日本語特有部分の権利は自社帰属にしてライセンスビジネスを、カーナビにG社の技術を組み込むところでは受託開発ビジネスをすることで、これらの2本柱で経営が安定した。
2003年からは、新設されたG社日本法人の取締役CTOに就任して、渡辺氏はエイムから4年ほど離れることになった。G社は全くカラーの違う会社で、外の世界を見ることで自分のやり方を反省する機会に恵まれた。また新規事業として携帯音楽プレイヤーを開発したものの、世の中のスピードに飲み込まれてしまった経験もあった。これらを良い薬として、「エイムのコアは開発力であり、それによりデジタル家電向けのサービス/コンテンツ提供をすること」と再定義した。
カーナビや携帯電話への搭載を意識して他社と共同開発した学習型推論エンジンは、個人の嗜好を反映したレコメンドやジャンル分類を可能にし、書籍や洋服など感性に依存しているために分類が困難なものをオススメできるようにした。
コンサートの演奏曲目を共有できるサイトを立ち上げ
コンテンツビジネスは 音技の杜という子会社を設立して運営している。音楽レーベルとして、クラシックの名曲に新たに日本語の歌詞を載せたCD“ことのはクラシック”を含め、3種類をリリースしている。また、同子会社ではサイト運営もしており、2011年には、コンサートやライブのセットリスト(演奏曲目)を情報投稿・共有するサイト「Live Fans」を立ち上げた。また、音楽プレイヤー向けのアプリも無料配信して、スマートフォンなどの端末内に収録した楽曲をセットリスト通りに再生して楽しむことができるようになった。 2012年には、企画、営業、エンジニアを集めて社長直轄の新規事業開発室を立ち上げた。エイムの社名が示すように“ねらい”を定めて、今後も様々な人に喜ばれるソフトウェア開発をしていくことであろう。