金属加工会社を継承し、事業多角化に成功
事業内容 | 金属切削加工・タッピング加工 |
企業名 | 株式会社 ナベセイ |
創業 | 1958年(昭和33年)5月 |
所在地 | 川崎市中原区井田1-1-26(本社工場) |
電話 | 044‐411‐7022 |
FAX | 044‐433‐7710 |
従業員 | 26名(パート/アルバイト含む) |
代表 | 渡邉 敬太 氏(ワタナベ ケイタ) |
URL | hhttps://www.nabesei.jp/ |
製造業を取り巻く環境の変化や後継者難から事業継承に悩む中堅・中小企業が増えている。川崎市中原区でタップ加工を営んできた㈱ナベセイは廃業する金属加工会社の機械設備を譲り受け、事業の多角化に成功。事業承継の新たなモデルケースとして注目されている。渡邉敬太社長は「日本の高い機械加工技術を残していきたい。熟練工の技を若い人に継承する場として今後は新卒採用も積極的に取組む」と次世代を視野に入れたヒト、モノづくりに意欲を見せる。
どん底からのスタート
ナベセイはタップ加工と試作品や多品種小ロットの機械加工を柱とする金属加工企業である。川崎市中原区にタップ加工を手掛ける本社工場、横浜市都筑区には金属切削加工を行う横浜工場を持つ。社員数はパートも含めて26人。半導体装置や第五世代情報通信(5G)関連の需要増を背景に事業は順調に推移。横浜工場の新設で増産にも対応できる体制が整った。とはいえ、現在に至る歩みは順風満帆だったわけではない。2度の転機が同社を大きく変えていった。
同社の創業は1958年。新潟から上京した渡邉社長の祖父(渡邉昇氏)が独立し、川崎市中井田に拠点を移してタップ加工を手掛けたのが始まりである。タップ加工とは金属の下穴にねじ跡(雌ねじ)を付ける工程で、ねじ切りとも言われる。同社ではタッピングマシンを使った加工を得意とし、京浜工業地帯を中心に顧客を広げていった。85年には渡邉社長の実父の渡邉敏康氏が二代目に就任。ナベセイの前身となる有限会社渡辺製作所を設立。タップのワタナベとして地域に根付いていった。
最初の転機は2001年だった。二代目の敏康氏が体調を崩し、余命わずかとの知らせが渡邉社長に届いた。「もともと家業を継ぐ気はなく高校卒業後に三菱ふそうに就職していたものの、後を継げるのは長男の自分しかいない」(渡邉社長)と実家に戻ることを決意した。入社後、わずか2カ月で先代が逝去。後任には渡邉社長の母の眞理子氏が就任した。ただ、「母は経理のみで現場には一切関わってこなかった」(同)ため、実質的に渡邉社長が会社のかじ取りを任せられることになった。
そこで待っていたのが大口取引先の倒産だった。「父も生前『あの会社は危ないらしい』と漏らしていましたが、1カ月後に本当にそうなるとは思ってなかった」(同)。売上の9割を占めていた取引先を失い、どん底からのスタートとなった。「とにかく仕事を増やすことが先決」と付き合いのあった顧客をまわる一方、飛び込み営業も行ったが、業界の経験もなく苦戦を強いられた。先代の残してくれた高級車を生活の為に手放すなど厳しい状況が続く中、渡邉社長は機械好きの特技を活かして自ら多数個どりのタッピングマシンを開発するなど生産性向上に取組み、新規顧客も徐々に増やしていった。
事業が順調に回り始めた頃、今度はリーマンショック(08年)が同社を直撃する。「引き継いで3年目くらいから上向き始めていたのが一気に吹き飛んでしまいました。パートの方にも休んでもらって自分も夜は運送屋でアルバイトして生活費を稼ぐくらい厳しかった」と振り返る。ただ、それでも廃業は考えなかった。逆にタップ以外で仕事を探そうと中古の汎用旋盤を購入し、独学で機械加工に取組み始めた。また、仕事探しのために協同組合高津工友会が主催する受発注会に参加。地域の仲間と知り合い、その後、青年部の立ち上げにも参加するなど人的交流を通じて仕事の幅を広げていった。
金属加工を第2の柱に
第2の転機が現れたのが13年。廃業する金属加工会社の機械設備を丸ごと買わないかとのオファーが舞い込んできた。川崎市中原区にあった㈲幸伸精機は、後継者がなく、設備を処分しようとしていたが、愛着のある機械が海外に売られていくのを忍びなく思ったオーナーの飯野幸夫氏が改めて事業承継先を探していたのだった。渡邉社長は引き継ぐことを即決した。「タップ加工だけでは先行き厳しいと感じていたのと、自分が機械好きで前から機械加工に興味があった」ことが決め手だった。設備は汎用旋盤、NCフライス盤、NC旋盤など長年使ったものから新品同様の機械までそろっていた。建屋は賃貸だったので、工場まるごと受け継ぎ、自社の第二工場として新たな一歩を踏み出した。「3カ月だけ飯野さんを師匠に機械操作のイロハを学び、NCプログラムはほぼ1人で勉強して覚えていきました」。また、設備は引き継いだものの仕事は受け継ぐことを断った。「私のレベルで師匠の仕事はできません。先方に迷惑をかけることになる」(同)とゼロからの挑戦だった。
第二工場の担当は渡邉社長1人のみ。夕方に本社で勤務を終えた妻の梨絵さんが手伝いにきて夜10時頃からは再び1人で明け方まで作業する日が3年ほど続いた。一方、高津工友会の仲間の協力で仕事も増えはじめ、徐々に軌道に乗り始めた。15年には渡邉社長が4代目に就任。名実ともに会社を統括する立場となり、タップ加工、金属切削加工の2本柱での体制が整った。
また、渡邉社長の右腕となる片山恵太氏(取締役工場長)が翌年に入社。もともと同社の顧客で、有名バイク店のエンジニアだった片山氏は機械加工から溶接までこなせる腕を持つ。「彼が来てくれたお陰で受注の幅が広がりました」と片山氏の入社が飛躍のきっかけとなった。
その後、他社をリタイアしたベテラン職人や三菱ふそうの技能五輪選手で指導員も務めた腕利きの後輩が入社するなど高い技能を持つ人材を積極的に採用。20年には最新の5軸マシニングセンタも導入、技術レベルは格段に上がっていった。
そして21年11月に念願の新工場を横浜市都筑区に確保。大幅なリフォームを経て22年3月から横浜工場として稼働した。新工場では渡邉社長夫妻の結婚式も開かれた。「入籍は会社に入ってどん底の頃。フライス盤で削ったステンレスの指輪を贈っただけ。妻には感謝しかありません」。二人三脚で歩んだ20年を仲間や社員に祝ってもらった。また、4月には社名も㈲渡辺製作所から現在の㈱ナベセイへと変更。新工場の完成は第二の創業ともいえる門出となった。
新たな創業を象徴する新工場
技術承継とメーカーへの脱皮
横浜工場には「[離れ]昭和な工場」と呼ぶ第二工場がある。汎用旋盤、汎用フライス盤など年季の入った機械が並ぶ。ここで旋盤やフライス盤のベテランの技を若い人たちに受け継がせるのが渡邉社長の狙いだ。若手育成に向けて24年からは毎年1人新卒者を採用方針していく方針で、「来年はパートさんの長女の入社が内定しています」という。渡邉社長は「人材採用を続けるためにも事業の安定は必要で、将来的にはタップ、金属加工に加えて、売上高の3割程度は自社開発製品が占めるような会社にしたい」考え。すでに加工と組み立てをセットにした受注も行い製品開発に向けたノウハウの蓄積にも着手している。メーカーへの脱皮がナベセイの3度目の転機となりそうだ。