小沢工業 株式会社

得意の絞り技術を核に、同業ネットワークを活かした新たな加工領域の拡大に挑む

小沢工業 代表写真
社長 小幡 晃久
事業内容 リチウム二次電池用角型ケース、キャップ・ヒンジ用部品各種、電子管用部品、漏電ブレーカー用シリンダー、センサー用部品、その他金属プレス部品
企業名 小沢工業 株式会社
創業 1959年(昭和34年)9月
所在地 川崎市幸区紺屋町20
電話 044‐522‐6221
代表 小幡 晃久 (オバタ アキヒサ)
URL http://ozawa-kk.com/index.html

金型設計からプレス加工までの一貫生産体制で顧客へのきめ細かい対応に取り組む小沢工業㈱。得意の絞り技術を活かして薄物素材を中心に量産化に向けたプレスへの工法転換を提案し、取引先との信頼関係を築いてきた。最近は新たな市場開拓を目指し、川崎市内の展示会などへも積極的に出展、「当社の技術に関心を持たれる方が予想以上に多い」(小幡晃久社長)と手応えを感じ、他社との協業によるネットワーク構築にも動き始めている。国内市場が縮小傾向にある中、半世紀を超える技術の蓄積が新たな需要掘り起こしに結び付いている。

東芝の協力企業としてスタート

多摩川流域の川崎市、東京大田区には高度経済成長を背景に大手企業の協力企業として多くのサポートインダストリーが生まれている。特にプレス加工や金型製作といった塑性加工関連業界ではこの地域で創業し、身に着けた高い技術を活かして国内外で活躍する企業も少なくない。小沢工業(川崎市幸区)も東芝の下請けからスタートし、独自の技術力を構築しながら新たな加工領域への挑戦に取り組んできた老舗プレス加工メーカーである。0.2mm以下の鉄やステンレス、真鍮といった金属の薄物材料を主体に真空管をはじめ、航空機部品、電池、医療機器、建材関連部材など小物部品を幅広く手掛け、「絞りなら小沢工業」と取引先から高い評価を得てきた。
現在、生産は川崎本社工場と深谷工場(埼玉県深谷市)の国内2工場で対応する。一品物や特殊な単発製品を川崎、量産製品を深谷でそれぞれ生産している。小幡社長は「新規受託も増えつつあり、深谷工場の増設なども今後3年かけて進めていく」と新たな投資へも意欲を見せる。2013年に父の小幡光男氏(現会長)から社長を引き継ぎ、独自の一手を打ち出そうとしているところだ。
同社の創業は1959年。創業者は小幡社長の祖父である。もともと自転車屋を営み、運搬用のリアカーのパンク修理で東京芝浦電気(現東芝)の工場に出入りしていたのがプレス加工業に入るきっかけとなった。「祖父が東芝の工場で稼働しているプレス機械に興味を持ち、そこでお客さんから声をかけられてプレスの仕事を回してもらうことから始まった」(小沢社長)。最初はケトバシ(フットプレス)を使ってテレビブラウン管の真空管の部品の加工から入っていった。
当初は金型を借りて部品加工していたが、そのうちに図面を渡されて金型設計も手掛けるようになった。金型のボルトの締め方ひとつで成形品の形が変わることなど一つひとつ確かめながら試行錯誤を繰り返して技術を習得し、徐々に受注製品も広がっていった。67年に電子レンジ用マグネトロン部品の量産を開始し、68年にはトランスファプレスを導入して真空管の量産に着手した。業容の拡大から73年には株式会社化し、翌年には深谷工場を建設。100tと150tのトランスファプレスを立ち上げ、航空機のコックピットに使われるマスクフレームなどの量産にも乗り出す。

早期に角型絞りを実現。電池ケースに採用

「祖父、父ともに技術開発への思い入れが強かったことが当社の技術力の評価につながっている。たとえば電池などに使われる角型の深絞りも早い時期から手掛けてきた。大田区のプレス加工会社が開発したことを知り、『うちにもできるはず』と取り組んで国内で3番目に実現したと聞いています」(同)。この技術は角型二次電池ケースに採用され、その後、電池ケースの加工事業は同社の柱となっていく。94年には群馬県松井田町に二次電池ケースの量産工場を建設し、深谷工場と合わせて設備投資を進め2000年には売上高でピークを迎える。
小幡社長が入社したのがその少し前の1998年。大学時代から家業を継ぐことを決意し、ハウスメーカーで4年間モノづくりの基本を学んできた。「当時の業績は好調だったが、先代社長は『こんな状況がいつまでも続くはずはない』と常に経営は慎重だった」(同)と振り返る。実際、ユーザー業界の海外展開などから国内の電池事業は縮小していくことになる。過去の円高による海外シフトやバブル崩壊を経験していることから事業拡大にあっても人員はむやみに増やさず、派遣等で対応していたため、電池事業の縮小による影響は最小限にとどめることができた。また、日本企業の受注が減るのと同時に中国、韓国メーカー向けの電池ケースの生産が始まり、急激な落ち込みを避けられたのは幸いだった。
電池事業の縮小が続く中、09年に松井田工場を閉鎖し、深谷工場に集約した。それと同時に医療機器や建材部品などに工法転換を提案しながら受注を増やすことで、主力事業の落ち込みをカバーし、リーマンショックの影響もほとんど受けることはなかった。
とはいえ、ユーザー業界の海外シフトの影響は年々大きくなってきている。創業以来の取引先との関係はいまも強く、主力であることには変わりないものの、そこに安住しているだけでは成長は難しくなっているのも事実である。

新規分野拡大を目指し、営業部を発足

こうした事業環境の変化から営業部を14年に発足させ、小幡社長がトップに立ち本格的な新規市場開拓に乗り出し始めた。ホームページ(HP)も若手社員が中心になって刷新し、工法転換例を示す写真や動画を豊富に掲載するなど自社の技術力を前面にPRする。さらに展示会にも初めて出展し予想以上の反応を得ている。「昨年は展示会に4回出展したが、特にプレス加工や金型など同業者から興味を持たれるケースが多く、引き合いも出てきた。HP経由での問い合わせもあり、お互いの得意分野を生かした形での協業にもつながってきた」(同)と早くも営業活動は軌道に乗り出している。
15年度は川崎市に加え、深谷工場のある埼玉県内での展示会への出展も計画している。小幡社長は「国内市場は厳しいといわれるが、外に出てみて元気のある中小企業は少なくないと実感している。そうした企業との仕事は楽しく、こちらも得ることは大きい。このようなネットワークの構築を進めていきたい」と他社との連携による市場掘り起こしに期待を寄せる。また、将来市場としては水素電池や農業分野へも関心を持つほか、金属以外のカーボン素材の加工などへの挑戦も検討し始めている。
今後の課題は社内に蓄積された既存の技術をいかに若手に引き継ぐかだ。「東芝から来ていただいた方々や生え抜きのベテラン、そして優秀な若手も育ってきており、本当に社員に恵まれたと感じている。こうした人材を活かして次世代のモノづくりにつなげることが当面の仕事であり、この2~3年が重要な時期」(同)という。すでに深谷工場の中堅技術者を川崎工場に置いてベテラン技術者のもとでの研修を進めている。OJT活動を通じて図面に含まれていない暗黙知を引き出し、電子データに残して「見える化」していくことも狙いの一つである。
同社ではアセンブリを含む新規の大口受注も控え、深谷工場の拡張計画も具体化しているところ。製販一体となった改革が、小沢工業の新たな成長戦略を加速させることになりそうだ。

川崎市産業振興会館
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