摩擦圧接工法をコア技術に新市場の開拓に挑む
代表取締役
大矢 賢司
事業内容 | 部品加工業(旋盤加工・摩擦圧接品) |
企業名 | 株式会社 大矢製作所 |
創業 | 1961年(昭和36年)2月 |
所在地 | 川崎市中原区上平間363 |
電話 | 044‐522‐6247 |
従業員 | 6名 |
代表 | 大矢 賢司(オオヤ ケンジ) |
URL | http://www.ohya-seisakujyo.com/index.html |
川崎市で創業し、半世紀以上に渡って部品加工を手掛けてきた株式会社大矢製作所(川崎市中原区)。摩擦圧接工法と呼ばれる金属部材を擦り合わせて接合する溶接技術を得意とし、重機向け部品を中心に事業展開している。最近では異業種とのコラボレーションによる「大豆選別機」を手掛けるなど地域のモノづくり企業とのネットワークを活かした市場開拓にも乗り出した。三代目の大矢賢司社長は「摩擦圧接技術を広く知ってもらい、新たな柱を育ていく」とさらなる経営基盤の強化に取り組む。
接合強度の高さを顧客が評価
当社の主力技術である摩擦圧接工法は、接合する部材を高速で擦り合わせ、油圧の押し込む力で接合させる溶接技術である。同工法は接合強度が強いことに加え、切削加工に比べて材料ロスがなく、加工時間が大幅に短縮できるなどの利点がある。
例えば同社が手掛けている重機向け油圧ホース用フランジニップルは前方と後方で外径差がある製品。一つの材料から切削で仕上げると外径の大きい方に合わせて加工するので材料が無駄になり、加工時間も長くなる。一方、摩擦圧接工法であれば外径の大きい材料と小さい材料の2つの材料を圧接することで材料のロスを防ぎ、加工も短時間で済む。また、同製品はパイプ形状で使用中に油が流れるが、受注以来50年間液漏れがなく、顧客からの信頼は厚い。
大矢社長は「技術は50年以上前に日本に導入されており、パイプの接合などの量産目的に自動車業界で採用されてきたそうです。ただ、摩擦圧接自体は部品加工会社などが内製化しているケースが大半であまり表に出てこない為、一般的にはそれほど知られた技術ではありません。実際、最近、展示会に出展してみてあまりの知名度の低さに衝撃を受けました。」と苦笑する。
異種材接合で需要を掘り起こし
近年はプレス加工の技術が高まり、量産品では摩擦圧接工法からプレス加工への工法転換例も多くなっているが、肉厚のあるパイプや長尺ものではプレス加工では対応が難しく、摩擦圧接工法の需要は根強い。また、「かつてプレス化された製品で、生産量が減ってきたものが、再び戻ってくるケースも出ています」と国内市場の多品種少量化の動きも追い風となっている。
新たな取組みとして力を入れているのが異種材の接合である。純銅とアルミニウム、純銅と真鍮など銅素材を基軸に展開し、半導体関連などの企業からのオファーが増えてきた。「コストを下げるため高価な金属を別の材料の一部にだけ接合するなどの依頼があり、シビアな要求に対応しています。今後は接合状態の検査など計測・測定技術にも重点を置き、顧客へのアピールを図っていきます。」と、高度化利用による需要の掘り起こしに期待を寄せる。
川崎市で創業
創業は1961年。茨城県内の部品加工会社に勤めていた大矢社長の祖父である基次郎氏が独立してフライスやネジ切りなどで部品加工を手掛け出したのが始まりである。川崎市で起業したのは本社工場がある中原区には同郷の新潟県出身者が多く、その伝手で同地を選んだという。「祖父はアイデアマンで、部品加工だけでなく健康グッズやドアの開閉装置など考案して販売していたそうです。」と、自社商品の売れ行きはそれほど良くなかったそうだが、本業では高度経済成長を背景に着実に業績を伸ばしていった。
そうした中、同社の柱となる「摩擦圧接工法」を導入する機会に恵まれる。顧客から技術指導を受け、設備を設置。専用の第2工場も建設しながら順調に事業拡大を進めていった。
しかし、創業者が50代の若さで急逝し、2代目を大矢社長の実父である恵助氏が20代で社長に就任。先代の事業を受け継ぐ中、管理体制や職人の確保の問題などから事業を摩擦圧接工法に絞ることを決断し、第2工場を閉鎖して本社工場に集約した。創業の理念である「誠実な仕事をすること」を忠実に守り、以降は摩擦圧接を主力に顧客との関係を強化。重機関連を中心に事業基盤を固めていった。
東日本大震災を機に家業を意識
大矢社長が入社したのは2013年。もともと海が好きで、水中カメラマンを志望し、映像関係の専門学校に入学する。卒業後はドキュメンタリーを制作する映像プロダクションに就職。NHKや民放の報道番組やドキュメンタリーの製作に10年間携わってきた。「3人兄弟の末っ子で、 実家を継ぐことは全く考えていませんでした。」その意識を大きく変えたのが2011年3月11日に発生した東日本大震災だった。
撮影クルーとして震災直後から被災地に入り、現地と東京を往復する日々が続いた。取材先で顔見知りも増え、そこで最も印象に残ったのが家業を大切にする人たちの姿だった。漁師、豆腐屋、和菓子屋など地元にこだわり、仕事を続けることへの思いを強く持つ人たちと触れ合ううちに、実家を意識しはじめた。「兄たちに改めて相談すると会社を継ぐ意思はないという。それなら自分がやってみようかと。父に思いを伝えるとあっさりと入社を認めてくれました。」
入社後は現場で一通りの作業を学んだ。2年が過ぎたころ仕事の段取りについて先代に不満を漏らした。「それなら自分でやってみろ」と言われ社長に就任することに。2015年に先代は会長に就任し、以来かじ取りは大矢社長に任された。
「当初は戸惑いましたが、父も20代前半で引き継いでおり、早いわけではないと判断したようです。実際、任されると大変なことがある半面、自由に動け、やりがいを感じています。」
就任以来、課題である生産量の確保に向けて設備の集約化に取組む。約100㎡の工場は手狭で、自動化設備などで対応しているほか、仕事の幅を広げるためフライス盤の導入も計画中だ。「受注拡大を考えると200㎡は必要。ただ、周辺は住宅で拡張は難しく、当面は設備の改良でしのいでいきます。」と、将来の移転も視野に、能力増強の準備を進めているところだ。
異業種で大豆選別機を開発
また、新たな試みとして始めたのが、異業種との共同事業だ。第1弾が「大豆選別機プロジェクト」である。協同組合高津工友会の青年部で知り合った、タッピング加工の㈲渡辺製作所(川崎市中原区)、板金加工の㈱ヒラミヤ(川崎市高津区)との3社で川崎市の新技術・新製品開発等支援事業補助金を受けてスタート。毎週末に集まり、1年半かけてコツコツと開発を進めてきた。
土壌を肥沃化する緑肥効果を持つ大豆栽培のネックとなる選別作業を軽減することが狙い。大豆の形状によって異なる「転がりやすさ」を利用して選別する仕組みを採用。大豆を加工用と食用に選別し、さらに食用を大中小の3サイズにふるい分けられる。処理能力は100kgで約4時間と手作業に比べて大幅な省力化が図れる。「試作機で農家と最終的なチェックを進めているところですが、オーバースペックな機能や部品を見直し、2017年冬の収穫期には間に合わせたい」考えだ。さらに障害者施設などと連携し、色味の選別なども合わせて行うことも将来構想として検討している。大矢社長は「報道に携わってきたことで社会貢献につながることに意義を感じています。とはいえ、利益がでなければ単なる自己満足です。海外展開も視野にアピールしていきます。」と、川崎のモノづくり力を基盤に新分野開拓にも意欲を見せる。