創業の地 川崎から美味しいとんかつを追及する
社長 日比生 泰宏
事業内容 | とんかつ・日本料理店 |
企業名 | 和幸商事株式会社(他グループ会社 (株)東邦事業・和幸フーズ(株)) |
創業 | 1958年(昭和33年)10月 |
所在地 | 〒212-8525 川崎市幸区堀川町580番地 ソリッドスクエア東館6階 |
電話 | 044-540-0151 |
代表 | 日比生 泰宏 (ヒビオ ヤスヒロ) |
URL | http://www.wako-group.co.jp |
とんかつ店業態のパイオニアとして全国に約250店舗を展開する和幸グループは、高品質なサービスを支えるために、徹底した社内教育制度など様々な事業努力を積み重ねている。川崎駅前からはじまって日本全国、さらには世界へととんかつ店チェーンを展開した経緯を、日比生泰宏社長に聞く。
厳しい社内検定制度を通じて調理技能を鍛える
とんかつ店のチェーンオペレーションにいち早く取り組んで来た和幸グループが心がけてきたのは、“原理原則にのっとる”ことだという。「美味しい商品、よいサービス、清潔な店作りを、お客様目線で愚直に追及し続けることの連続だった」創業50年を越えて活発に事業を展開する和幸グループを率いる日比生社長は語る。
その取組みの一つが、各店の調理技術の標準化を目指した調理技能検定試験である。「同じ和幸という看板を掲げている店舗で、あそこのお店とここのお店で、あるいは昨日と今日で味が違っていては、お客様に安心してとんかつを味わっていただけない」という考えのもと、すべての店舗に配置しているプロの料理人に課す検定試験を導入した。一年に三回実施される試験で三級資格を取得すると、美味しいとんかつを揚げられる腕前であると認められ、調理主任として各店舗で勤務することができるようになり、さらにお客様の満足度向上を目指したスピードときめ細かなサービスの習得のため、二級、一級においても昇給や昇進における一定のインセンティブを付与しているという。
入社時の誓約書には、“二年以内に三級資格を取得する”と書かれる程の厳しい検定であり、一級資格を取得しているのはわずか10%ほど。検定の取得平均期間でも4年近くかかるという高いハードルを越えることで、和幸のサービスは磨きをかけられる。
鍛え上げられた職人技は、“調理の標準化”を越えた顧客満足を生み出す。例えば、とんかつに使われるロース肉は、肩に近いかお尻に近いかで肉の太さが異なるため、同じ重さに切り取るには厚さを変えなければならない。しかし、厚さが違うと火の通り方にばらつきが出来るため、同じグループのお客様に料理を提供するタイミングを揃えるために、揚げる手順をとっさに判断して調整をしている。
マニュアル化出来る肉の揚げ方とは違い、注文が多い時間帯における“お客様目線での”揚げ方の段取りは決まったマニュアルではできない。全国でもトップクラスのベテランになると、その日の天気で変わるパン粉の湿気を指先で判断して、衣をつける強弱を工夫するほどだ。しかし大勢のお客様が来店されたとしても、「100分の1ではなく、1分の1」の顧客に満足していただくためには必要な技能だという。最近テレビのニュース番組でこの検定制度が紹介された際も、「お客様があの名人はどこのお店にいるんだろう?とインターネット上で情報交換されていましたよ」と話す。
最後までカラッと美味しく食べるための「とんかつ網」
創業家の一員として、父にあたる前会長を目標に経営に携わり、幼少期よりとんかつの美味しさにこだわってきた日比生社長は、今では日本中のとんかつ店で当たり前になった“とある工夫”を創案した。
「食べていてどうしても我慢できないこと、それはとんかつを食べているうちに、つけあわせのキャベツから出た水分が皿の上で衣にしみ込んで舌触りが悪くなる点でした」当初は水分ととんかつの間をせき止めるために食器の真ん中に段をつけたものの、昔の学校給食の食器のようになり見た目が悪くなる。そこで日比生社長が考えたのが、日本料理屋で氷の上でお造りを盛り付けるときに使われていた金網を活用することであった。1995年、横浜の上大岡店への導入に始まった後は網の導入は瞬く間に全店に広がり、他のとんかつ店にも真似をされた現在では網を見かけない店が珍しいとんかつの盛り付けのスタンダードとなった。網自体に技術的な新規性は無く特許の取得は出来なかったが「もし権利取得出来ていたら、今ごろは網でも収益を上げていたのでは」と日比生社長は笑う。
地元川崎の消費者に鍛えられて
和幸の創業は昭和33年10月、川崎駅前にある現在の川崎BEの場所にあった駅ビルの地下が第一号店である。「和幸の味は、川崎のお客様のこだわりと一緒に鍛えられた」と歴史を振り返るように、顧客のある一言が現在の和幸を形作るきっかけであった。創業当初の二年程は、来客も少なく鳴かず飛ばずであったが、“とんかつにはしじみの味噌汁が合う”との声をレジで聞き、試しに100円のとんかつ定食にセットとしてシジミの味噌汁を付けたところ、評判を呼ぶこととなる。その後は、他にとんかつチェーンが無かったため大阪万博への出店に声がかかり、最初は来場者が少なかったものの、会期中のゴールデンウィークからは大繁盛し百数十メートルの行列になったという。あまりの行列の長さに「お釣りが切れてしまって、小銭をお持ちのお客様を優先させていた」と日比生社長は当時7歳の記憶を思い出す。話題を呼んだ和幸は、その後全国的に店舗を展開していく。
創業者は、現社長の叔父である一虎氏と父にあたる信一氏の二人兄弟。「いいコンビで、まさに車の両輪」と評する通り、元新聞記者だった一虎氏は、日本で最初にジェラートを紹介するほど社会にアンテナを張り、和幸の事業に活かす企画力・構想力を持った人であったという。対して信一氏は事業を組織的な仕組みとして整備していくことに長けており、戦後の日本で、駅前商業地が開発されていた時代に、駅ビル内にテナントとして入りやすいパッケージ業態を開発したことで、チェーン展開の礎を築くこととなった。
創業の地である川崎駅周辺には現在6つの店舗があり、「地元のお客様はとてもとんかつの味に厳しい」ため、各店舗は緊張感を持って競い合っている。全国的には駅周辺ビルへの出店が中心ではあるが、ロードサイド店などの新業態や、中国四川省の成都への海外進出などお客様目線でサービス品質を改善している。しかし、そのような変化の中でも、前社長であり父でもある信一氏が残した「凡事の徹底」のスローガンを胸に、社是である「誠実」を追求し続ける姿勢は変わらないであろう。