株式会社 劇団飛行船

子供たちに美しい夢と感動を届けるマスクプレイ・ミュージカル

劇団飛行船 代表写真
社長 鈴木 徹
事業内容 マスクプレイの企画・制作・公演事業 他
企業名 株式会社 劇団飛行船
創業 1966年(昭和41年)9月
所在地 川崎市多摩区登戸3375-1 2F
電話 044‐930-1551
代表 鈴木 徹(スズキ トオル)
URL http://www.hikosen.co.jp/

ミュージカル“7ひきのこやぎと狼”では、登場するキャラクターが全て着ぐるみである。躍動感のある動きで性格や感情を表現し、一般に想像する人形劇のイメージとは異なる。マスクプレイ・ミュージカルと名づけている公演元の劇団飛行船は、多くの児童・生徒を夢中にする作品を50年近く世に送り出してきた。名古屋大学理学部で生物化学を学んだという意外な経歴の鈴木社長にマスクプレイ・ミュージカルにかける思いを伺った。

演劇と生活の狭間で迷った鈴木氏を引き込んだ劇団飛行船の作品の素晴らしさ

鈴木氏は、愛知県で生まれ幼少時から名古屋の放送局の演劇サークルに所属していた。演じる楽しさを知りつつも、大人の俳優に垣間見られた生活の不安定さが子供心に焼きついていて、もともと化学が好きであったこともあり、安定した仕事につけるよう理学部に進学した。大学では、趣味として演劇サークルに所属し、セミプロの俳優として数々の舞台を踏んだ。そこで「演じているときの高揚感は何物にも代えがたい」という実感を強くした鈴木氏は、これからの生き方を自分自身に問いかけた。その答えは、芝居であった。「楽ではないが、自分ができるところまで極めてみたい」と決意し、23歳で上京、プロの劇団に所属する俳優となった。24歳の時に結婚し、子供もできた。
しかし、劇団中心の生活は困窮し、2人目の子供の誕生をきっかけに、一旦、劇団を休団して経済的に立て直すことを選択した。昼間はボウリング用品の営業、夜間はボウリング場の清掃を個人契約して、一心不乱に働き、昼夜ない生活が続いた。演劇を封印して3年経つ頃には、アルバイトを雇うほど仕事は忙しくなっていた。
ところが、1973年の年の瀬を迎えていた時に事件は起きた。大晦日の日に取引先からの手形が不渡りになってしまったのだ。年が明けた1月2日に相手の事務所へ行ってみると、既にもぬけの殻であった。紙くずになった手形を握りしめる力もないほど、鈴木氏は心身ともに疲れ切っていた。そんな夫の姿を見つめていた妻からの後押しもあり、「これからは納得できる人生を探そう」と鈴木氏は、心機一転、演劇の仕事を探すこととした。
そして3日後には、演劇の仕事を求めアルバイト情報誌に掲載されていた “こどものための演劇”というぬいぐるみを使った小劇団の求人を見つけ、直ぐに採用された。「とにかく舞台に立ちたい」という気持ちで選んだ仕事であったが、ぬいぐるみを着て子供の前で演じることに強い思い入れはなかった。しかし、いざ舞台に立ってみると、自分がかつて感じた高揚感を上回る素晴らしい感動に出会えた。それは、「ありきたりや義理ではない、子供たちの純粋無垢な気持ちからの拍手と歓声とまなざし」であった。鈴木氏は、生まれて初めて本当のお客さんに出会えたような気持ちになり、「この真剣なお客さんのために児童演劇を極めてみたい」と片っ端から他の児童劇団の公演に足を運んだ。
そこで出会ったのが、劇団飛行船の作品“ピノキオ”である。「演技、脚本、音楽など全ての点で自分の想像を超えており、脳天を殴られたような感覚を呼び起こす、時間と能力をたっぷりかけて創った一流の作品。自分もこんな作品に携わっていたい」という強い思いを持った。
そうするうち縁ができた。大隅彰太郎(劇団飛行船創設者で当時の社長)氏から一つの分厚い絵コンテ集を見せられた。ページをめくるたび、わくわくどきどきする素晴らしいものであった。この時点で俳優を極めるより、芝居で子供を楽しませたいという気持ちがはるかに強くなっていた鈴木氏は、「この作品の舞台監督をしてほしい」との劇団飛行船からのオファーを受け、1975年に同社の第1号社員として入社する。

全国の子供たちや保護者に喜ばれ、支持されているマスクプレイ・ミュージカル

劇団飛行船は、大隅氏らが1966年に旗揚げした人形劇団である。オリジナル作品のほか世界名作や日本昔話などをマスクプレイ・ミュージカルとして舞台化してきた。
鈴木氏が魅せられたのは、演劇界の常識を覆す劇団の発想であった。例えば、1975年から上演した“おやゆび姫のふしぎな旅”では、映画やテレビなどで実績のあるアニメや特撮の専門チームを配し、背景の映像から舞台へ人物が飛び出てくるような演出がされていた。当時としては、破格の1億円の制作費をかけ、海外ロケも行った。ヒット作品があれば、その利益を次の作品に惜しみなくつぎ込んだ。演劇としての厚みを出すために、出演人数は20人程度、豪華な舞台も設けている。動きの躍動感に合わせたぬいぐるみやエンターテイメント性を演出する舞台装置など細部へのこだわりもある。
一見贅沢でありながらも劇団を続けていられるのは、純粋無垢に感動できる幼い観客や保護者たちの支持があり、リピート公演があるからだ。今では、年間で2000前後の幼稚園、保育園の行事として、全国で観劇会が催されている。
1978年に鈴木氏が役員に就任して以降もいろいろなことがあった。人の出入りがあったり、スケジュールが真っ白になったりしたこともあったが、バブル期以後は経費を抑えながらも、創造集団らしい新しい作品を作り上げてきた。その一つの取組として、テレビアニメ路線を本格化した。1999年に“忍たま乱太郎”を、2008年には“ちびまる子ちゃん” を制作・上演した。原作イメージを損なわないようにしながらも、脚本は飛行船で書きミュージカル化した。

オーケストラとの共演や海外公演など新しい取り組みも積極的に展開

今後も演劇としての質的向上は必要であるが、それだけではこれからの時代には通じないとも思っている。新しい表現は常に追求している。
2014年には川崎市のしんゆり芸術祭“アルテリッカしんゆり”において、“7ひきのこやぎと狼”を昭和音楽大学のオーケストラとのコラボレーション公演として実現した。飛行船の代表作の一つである作品に、オーケストラと歌手達が奏でる生の音楽の魅力も加えた贅沢な企画である。作曲家の故山本直純氏と知り合ってからずっと温めてきた企画をようやく形にできた。
また、ビデオプロジェクターなどの映像技術も使いやすくなっており、映像を入れ込んだ作品も考えているところである。
1977年から取り組んできた海外公演についても、近年、事業的な手ごたえを感じている。これまで世界各国で公演を重ねてきたが、さらに力を入れるため、海外事業部を立ち上げた。旧ソ連公演では観客の85%が大人であるなど地域性の違いもあり、細かく対応していく。2005年より中国、韓国、台湾などの定期公演をスタートして、2013年度はアジアで100ステージを上演した。
2014年の台湾公演では、大変な盛り上がりを見せた。販売物コーナーには人だかりができ、会員の申し込みも殺到した。「カーテンコールなど観客からの“熱さ”がもの凄かった。演劇界が活況を呈していた70年代や80年代の日本と同じ感じです」と鈴木氏は興奮気味に語る。飛行船の作品の持つ力と娯楽性であれば、中国や東南アジアでは十分受け入れられる確信を得た。「川崎から世界へマスクプレイ・ミュージカルの文化を発信したい」と生田にあるけいこ場は、夢と感動を伝えるエネルギーに満ちている。

川崎市産業振興会館
トップへ戻る