高難易度・高精度・難削材の加工力。50年の実績で「はやぶさ品質」を誇る
代表取締役
清水 睦視
事業内容 | 金属加工事業、導波管事業 |
企業名 | 株式会社 サンテック |
創業 | 1968年(昭和43年)10月 |
所在地 | 川崎市中原区宮内2‐28‐2 |
電話 | 044‐799‐9221 |
従業員 | 92名 |
代表 | 清水 睦視(シミズ ムツミ) |
URL | http://www.e-santec.com/ |
小惑星探査機はやぶさ2のイオンエンジンプレート製作で「はやぶさ品質」と評判になり、「下町ロケット」を彷彿とさせる金属加工メーカーである株式会社サンテックの清水社長は、困難な開発案件に積極的に取り組み、「モノづくりをずっとやっていきたい」「決して諦めない」と将来の夢を語る。
儲けるためではなく世に誇れるものを作ろうという情熱と、極めて厳しい加工精度を実現する技術力で取り組んだ「はやぶさ2」のイオンエンジンプレート製作
2014年12月3日13時22分、H‐ⅡAロケット26号機が打ち上げられ、大気圏外に昇り行く機体を、社長以下社員一同が歓声とともに見守った。池井戸潤の原作をドラマ化した「下町ロケット」前半部のクライマックスシーンと同じ光景が、その日サンテック社で繰り広げられた。H-ⅡAロケット26号機には、小惑星探査機はやぶさ2が搭載されており、そのイオンエンジンプレートは当社が製作したものである。
2012年5月頃、創業以来付き合いのあるNECグループから、失敗は許されない一回のみのプロジェクト商談として話があった。社員から「何か当社の技術力を誇れるものを作りたい」という意見も出され、儲けを度外視しても受注しようと意気込んだ商談であった。はやぶさ1でのトラブルを踏まえ、はやぶさ2は多くの改良が必要とされた探査機である。そのため、イオンエンジンをマウントする金属製プレート部分は5ミクロン以下の精度が求められていた。金属加工方法もはやぶさ1を製作した当時の放電加工技術ではなく、最新の5軸マシニングセンターを使って精度を出したのである。
数十社の同業者の中から品質と価格で3社に絞られたが、当社はNEC東芝スペースシステム(現:NECスペーステクノロージー株式会社)との厚い信頼関係もあったことから、見事に落札したのである。受注してからは約4ヶ月の間、5ミクロン以下の精度を出すために日夜苦労を重ねて納入したが、納入して終わりではなく、約半年間の試験に取り組まなければならなかった。
また、イオンエンジンプレートとは別に、4基のエンジン試験のためにアメリカのNASAと往復するためのキャリングケースも受注し、NHKで放映されたはやぶさ2の特集で偶然にも当社のキャリングケースが映し出された。
打ち上げ当日は、残念ながら種子島宇宙センターには行けなかったが、会社の食堂のテレビ映像で苦心して製作した高精度のエンジンプレートを組み込んだ「はやぶさ2」の打ち上げを、社員一同固唾を飲んで見守ったのである。これにより、創業時より高難易度の加工力と高精度の加工力で事業を拡大してきた当社は、「はやぶさ品質」として更に高い評判と信頼を得ることになった。
航空・宇宙・防衛分野で高精度の加工、難削材の加工が強みの金属切削メーカー
当社の主要事業は金属加工事業と導波管事業であり、「最新マシン×匠の加工者」と「自社開発管理ソフト×IT技術」を融合して、高難易度および高精密な加工製品を短納期で顧客に提供している。1968年、川崎市高津区坂戸にて坂戸精機株式会社として創業、1988年に現社名の株式会社サンテックに変更し、1992年に現在の中原区宮内に本社を構えた。
強みとしては、いわゆる難削材と言われるインコネル・チタン・ハステロイ・マグネシウム・CCMの加工や、CFRP等の新素材加工にも対応できることと、マイクロ波通信用導波管に使用する難易度の高い銀ロウのロウ付け技術を有していることである。主要な取引先であるNECグループや株式会社ジャムコなどに、航空部品・衛星フライト品筐体・防衛通信筐体・通信機器用部品を納入し、顧客から高い信頼性を得ている中原区宮内を本社とする企業である。かなり以前からマシニングセンターを導入していたが、現在は5軸制御立形マシニングセンターを複数台保有し、高難易度・高精度・難削材の加工が要求される注文に対応している。
プログラムで機械が動くことの面白さに魅せられて入社。社長として困難な開発案件に積極的にチャレンジ。「決して諦めないこと」
「遊んでないで手伝いに来てくれ。」2代目社長であり、祖父でもある清水登氏から声をかけられたのは、清水社長が大学受験勉強中の時であった。中学生の頃から「ロボット買ったから見に来るか」と声をかけられ会社に遊びに行っていたが、ロボットというのはその頃工場に導入したマシニングセンターのことであった。大学受験で予備校に通っていた清水社長はアルバイトで手伝いに行ったのだが、元々モノづくりが好きということもあり、プログラムで機械が動くことの面白さにのめりこんでいった。
結局、大学進学をあきらめて祖父の経営するサンテック(当時は坂戸精機)に入社したのが、1982年清水社長が20歳の頃であった。会社創業時から導波管の事業を行ってはいたが、導波管だけでは業績が伸びず、キヤノンからは民需系、NECからは防衛関係の金属部品加工の仕事を請け負っていた。ところが、清水社長が入社してから10年ほど経った頃、折しもバブル景気が崩壊し、キヤノンからの仕事がほぼ無くなってしまった。一方、通信方式がアナログからデジタルに大きく変革する時代でもあり、NECのパソリンクという無線通信システムの基地局関係の仕事や導波管の製造移管を引き受けることができ、バブル崩壊後の売上の落ち込みをカバーし、社業を一層発展させる契機にもなった。
入社以後、会社は防衛や通信インフラ、ステッパー等の半導体製造装置関連の仕事で成長をしてきたが、清水社長はプログラミングや製造のみならず経理など経営に関わる広い守備範囲を担当した。2014年6月に、伯父にあたる先代の三俣征夫氏から受け継ぎ、サンテック四代目の社長に就任した。ちょうど「はやぶさ2」のプロジェクトに取り組んでいた時である。
社長になってからは、顧客や金融機関等との対外的な折衝がそれまでと比べて極端に増えた。顧客からは新規の難しい開発案件をよく頼まれるが、困難な仕事ほど持ち前のチャレンジングであきらめない精神で取り組んでいった。最近は、4K・8Kのディスプレーに対応した高精細の画像を送るために、世界中の放送局が放送設備を取り替えており、当社は熱交換器の部品を請け負うことが増えてきた。また、防衛車載用の無線機の筐体を、ファイバーレーザー溶接工法を用いて高精度で製作することに取り組んでいる。
清水社長は、「モノづくりをずっとやっていきたい」と語るが、今後は、軽くて丈夫な新素材であるCFRTP(熱可塑性炭素繊維強化樹脂)の素材供給や加工品の提供を、防衛装備品向けや新たな用途開発も含めて今後の柱のひとつにしていきたいと意気込む。社長室には就任後に考えた「サンテック八訓」が大きく掲げられており、8番目の言葉が「決して諦めない」である。最近は社長業も忙しく、残念ながら好きなゴルフは諦めているそうであるが、事業にかける夢を諦める日は来そうもない。